由 緒

[主祭神] 少彦名命(すくなひこなのみこと)
[鎮座地] 群馬県高崎市石原町1247

 群馬県内にある延喜の格式に記載のある十二の神社のうち、七之宮とされている。
合祀されている祭神は、速玉男命・大日孁命・五十猛神・健御名方神・大國主神・誉田別命・伊弉册命・宇氣母智神・倉稲魂神・大名持神・大山祇命・八衢姫命・菊理姫命・軻遇突智命・八衢彦神・久那止神・市杵嶋姫命・事解男命・素盞鳴命・菅原道真公・藤原家隆卿の二十一柱。
旧社格は郷社。ご神紋は「三つ巴」。近くを流れる烏川にかかる橋が聖石橋で、烏川の中に、「聖石」「赤石」「川越石」の三石があるといい、石と関係の深い神社であることがわかる。


 「三代実録」の元慶四年(八八〇年)五月二十五日条に、「正五位下、小祝神社」とある。
「上野国神明帳」には、「正一位小祝大明神」とあり、群馬県西郡に「息災寺小祝明神」の記載があることから小祝神を奉斎する氏族は国府官人になったと見られ、先の「息災寺小祝明神」は、国府近くに建立された息災寺に氏神として当社から勧請されたものと推測される。


 延長五年(九二七年)成立の「延喜式」神名帳では上野国片岡郡に「小祝神社」と記載され、式内社に列している。尚、同帳では当時の読みとして「オハフリ」と振られている。「ハフリ」は、神に人間の言葉を告げることをいい、転じて神祇官の役職名になった。

 現在の主要社殿は本殿、拝殿から成り、これらが一体となった形式である。ただし、幣殿・拝殿は本殿よりも後の造営になる。現本殿は江戸時代の正徳三年(一七一三年)に高崎城主であった真鍋越前守詮房(まなべえちぜんのかみあきふさ)による造替で、享保二年(一七一七年)に棟上げされた。


 形式は三間社入母屋造で、側面も三間からなり、正面には向拝三間を付す。屋根は、当初は桧皮葺または柿葺であったと見られるが、現在は銅板葺である。本殿内部は外陣(手前二間)と内陣(奥一間)に分かれ、内陣には厨子が安置されている。


 この本殿は、高崎市の神社本殿としては最古であるほか、その背面に嵌め込まれた彫刻パネル(群馬県最古例)が類例の年代判定の指標にもなるとして、棟札・奉納額・寄進銘とともに高崎市指定重要文化財に指定されている。


間部 詮房


間部詮房(1666年~1720年)
1710-1717高崎城主(5万石)
この間に ①城下町の拡大(常盤町・四ッ谷町・新喜町の新設)
②特産品の奨励(桑紙の生産)
③石原の小祝神社の再建
④高崎城乾櫓の重層等を行ったと言われている。


生 涯

寛文6年、甲府藩主・徳川綱重の家臣・西田清貞の子として生まれる。
はじめは猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが貞享元年(1684年)に綱豊の小姓に抜擢される。
その後、綱豊の寵愛を受けて昇進を重ね、元禄12年(1699年)に甲府藩用人になり、宝永元年(1704年)、家宣の江戸城西丸入りに伴い、甲府徳川家家臣団は幕臣に編入され、詮房は従五位下・越前守に叙任し、西丸奥番頭(書院番頭格)になった。


 宝永2年(1705年)、西丸側衆になり、宝永3年(1706年)には若年寄格となり、相模国内で1万石の大名となった。 同年12月には従四位下に叙され、老中次席に昇格する。
宝永7年(1710年)に高崎5万石の領主となった。 日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。


家宣が将軍に就任してからは新井白石と共に正徳の治を断行した。
詮房は家宣の側用人として大きな権限を握り、正徳期の幕政を主導した。
しかし、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、 門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革がなかなか進まなかったのが実情である。 そのため、享保元年(1716年)に家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。
詮房は側用人を解任され、領地を関東枢要の地・高崎から遠方の越後国村上に転封された。


享保5年、暑気あたりで村上の地にて死去した。享年55(満54歳没)
家督は、実弟で養嗣子の詮言が継いだ。

間部家は、上野国高崎5万石から越後国村上5万石を経て、越前国鯖江5万石で明治維新を迎え、華族令によって子爵を授けられた。


【人物・逸話】
真面目で信義に篤い人物だったとされ、家宣も詮房のことは特に信頼していたという。
新井白石は「身の暇がなく」「きわめて生質の美なるところありて、おおかた古の君子の人にも恥じまじき」と詮房を評した。
また、白石は家宣の死後に政治に対して消極的になることも多かったが、そのような白石を励まして能力を引き出すことに尽力した